先日の本棚整理のつづきで出てきた本『リズムの本質』。 これはドイツの生の哲学者ルードヴィヒ・ クラーゲスによる「リズム」と云う多義的な言葉に布石を投じる一冊で、 水波等の自然的なものから人為的生成による音楽、絵画そして文学等々における反復ないし拍の問題について記述されている。 いわゆる「生の哲学」という分野に含まれる内容になるのかもしれないが、ドイツ神秘主義直系の霊的衝動が全開の内容でもある。
規則的に刻まれた拍子は受容者を覚醒させ夢見心地にさせる。 すると意識と無意識が対立するように、拍子とリズムは対立関係にあることになる。 対立関係とは、リズムが精神作用の生み出す拍子に支配されると、 それによってリズムは生命力を減衰させてしまうということである。 だが果たしてリズムと拍子との関係は、そのような単純なものなのだろうか?。
電車に揺られているとき、機械的な拍子音を延々と聴いているのにもかかわらず 心地よくゆらゆらと眠りに誘われる状態は誰しもが体験していることだろう。 この場合、クラーゲスによればガタンゴトンという車輪から放たれる一定の拍子と振動が、 受容者によって周期的に変化するリズムに置き換えられ、 今まさに運ばれているという感覚を体現し同時に安堵感も増長されるのである。
また、赤ん坊の揺り籠を揺らすときに、 一方の側から他方の側へ移行する転向点で一瞬止め、 そのことによって切れ目をつけ拍子を強調したら赤ん坊はゆっくり寝てなどいられないだろう。 揺りかごで重要なのはあたかも終りなく続いているかのような流動状態を作り出すことであり、 そのための手段として互いに反対方向へ向かう分節をもった周期的変化が必要なのである。
付け加えて私的な見解を簡潔に云うと、 半永続的な「一定の振動・拍・動き」はあらゆる要素により安堵感と不安感、不快感が180度逆転するものでもあると考え得る。 その要素の一つとして挙げられるのはその行為が「能動的か受動的か」である。 数個並んだドラム缶を反対側に運び、全て運び終わるやいなや今度は元の側に戻す (以下延々繰り返し) という拷問があるが、 この能動的行為 (正確には半能動的行為) は「無意味」そのものを体現する、或いは、体現させることに他なら無い。 「無意味」なものに関して人間は不快感を感じ、次第に不安感に駆られ、最終的には苦痛以外の何モノでも無くなる。
・不快感 → 不安感 → 苦痛 → 思考回路の分断化、という流れである。
一方、先出の電車や揺り籠の例もそうであるが、 受動的な行為になると途中経過は一転する。 受動的で或る以上、肉体性は伴わない事もあるが、初期段階に置いての不快感は一様でもある。 にも関わらず、次の段階に当たる不安感の部分が快感に置き換わる可能性は極めて高い。 もしくは、その快感も越えて一気に思考回路の分断に結びつく事も考え得る。
・不快感 → 思考回路の分断化、という流れである。
どちらにせよ「一定の振動・拍・動き」は最終的に思考回路の分断化を招くことには変わ無く、向かい行く先は同じなのかもしれない。